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2006年11月の2件の記事

2006年11月29日 (水)

世界の被ばく

日本は、「世界で唯一の被ばく国」ではありません。

1945年8月、広島、長崎に投下された原子爆弾は、アメリカ・インディアンのナバホ族の土地から掘り出されたウラン鉱石を使って製造されました。

ウランを採掘する現場で、作業員たちや周辺の住民達は、放射能を帯びたウランの粉塵を吸い込んだり、川や地下水に混入した放射性廃液を体内に取り込む形で被ばくしています。

そして広島長崎への原爆投下の前にも、アメリカのニューメキシコ州で大気圏核実験が行なわれています。

1945年7月に行なわれた核実験「トリニティー」では、風下に住んでいた先住民や、危険性を告げられずに実験に立ち会った兵士達が被ばくしました。
そして政府の研究材料であるかのように扱われた彼らの多くは、ガンや白血病に苦しんだ末、命を落としていきました。

その後もアメリカやロシア、フランス、イギリスなどの国々は競って核開発を進め、オーストラリア、ポリネシア、マーシャル諸島、カザフスタンなど様々な地域で核実験が行なわれ、今この瞬間も多くの現地住民達が被ばくの後遺症に苦しんでいます。

さらに、採掘されたウランを燃料用に加工する際に生まれる劣化ウランは、劣化ウラン弾という放射能兵器に作り替えられ、アフガニスタンやイラクなどで通算3000トン以上も使用され続けています。

この劣化ウラン弾は、炸裂した後に放射性物質を空中に振りまき、敵味方や兵士や市民、大人や子どもを問わず多くの被ばく者を産み出し続けています。

広島長崎から9年後の1954年、アメリカ合衆国はマーシャル諸島のビキニ沖で水素爆弾による大気圏核実験「ブラボー」を行ないました。

島に住む人々の多くは、核実験が実施されることを聞かされていなかったそうです。
島の住民や海に出ていた漁師たちは、新たな被ばく者となりました。

ビキニ沖で死の灰を浴びた後に焼津港に辿り着いた「第五福竜丸」の無線長・久保山愛吉さんは、
「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」
という言葉を残して息を引き取りました。

しかし、久保山さんの言葉もむなしく、世界はあたらしい被ばく者を産み出し続けています。

核実験やウラン採掘のほとんどが先住民の暮らす土地で行なわれています。

そして、彼らに対して放射能の危険性を事前に伝えるケースは、ごくまれです。
多くの場合、彼らは知らず知らずのうちに被ばくし、治療ではなく研究のために医療施設に送り込まれていきます。

大地と共に暮らす生活の知恵を保ってきた先住民達が、目の前の豊かさを追いかけ続ける先進国のツケを払い続けているのが今の社会の姿です。

このような出来事は、核開発、原子力開発に限って起こっていることではありません。

2002年に独立を果たした東ティモールでは、1970年代から20年以上もの間、同国の海域内にある石油の利権を巡った軍事侵略をインドネシアから受け続けました。そして人口の約3分の1の人々の命が奪われました。
そして、インドネシアの兵器調達のための資金を支えていたのは、日本政府からの援助金でした。
今現在行なわれているアメリカによるイラクへの侵略も、同様に石油の利権をめぐるものだと言われています。
私たちの使っている石油は、このようなプロセスを経て届いているのです。
また、最近新しく問題になっているのは、携帯電話に使われている「タンタル鉱石」です。
この鉱石を掘り出すための内紛が、アフリカの各地域で起こり、多くの住民が土地を奪われ死に追いやられています。

私たちが現実に目を覚ますのが早いか、彼らの命を奪い続け自らも滅んでいく未来が訪れるのが早いか。
どちらにせよ、私たちひとりひとりの一つ一つの選択が未来を作る鍵を握っていることだけは間違いないでしょう。

自分につながるもの達との関係を見直すことは、
世界を取り巻く不均衡や歪みを正していくための大切な一歩になるのだと、つくづく実感します。

世界のひとつひとつを変えていく為に、身の回りのひとつひとつを変えていくこと。
私たちの無意識な選択の一つ一つが環境を破壊し、命を奪っていたのであるならば、その私たちがこれからの一つ一つの選択を変えていけば、その選択の積み重ねは世界を変えていくのではないでしょうか。
そんなことを日々、思うのです。

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1945年8月に広島、長崎に落とされた原子爆弾によって、
その原爆投下の前後に行なわれた核実験によって、
また原子力産業に関わる様々なプロセスの中で、
世界中におびただしい数の被ばく者がうみだされています。

広島長崎で暮らしていた住民達に対しては当然のことながら、
アメリカ、ビキニ環礁、マーシャル諸島やポリネシア、オーストラリアなどで行なわれた核実験の際にも、現地に暮らしていた住民達に核実験の実施についてや、被ばくの危険性について事前の告知はなかったといいます。

1954年3月1日、日本の「第五福竜丸」が被ばくしたことで日本でも有名になった核実験「ブラボー」をビキニ環礁で行なった理由は、そこに住んでいる人が少ないからだったといいます。
彼らは「ビキニには何もない。何もない環礁。」と言って、住民の存在を無視したのです。

そして原子力産業に目を向けると、同様のことが世界中で行なわれています。

アメリカのナバホ族や、オーストラリアのアボリジニー、インドのジャドゥゴダの先住民などが、自分たちの土地にウラン鉱石があることを理由に、それまで暮らしていた土地から強制的に移動させられたり、ウランによる放射能汚染の危険を告げられずにウラン採掘の作業に従事させられました。
そして、作業員やウラン鉱山周辺に暮らす多くの人々が被ばくしました。

彼らの多くが、いまだに肺がんや白血病、死産や流産などの被害に苦しんでいます。

そして、そうやって掘り出されたウランは、濃縮、精錬され、原子力発電の燃料として使われています。

ウランを濃縮する際に生まれる「劣化ウラン」は、放射能兵器「劣化ウラン弾」に作り替えられ、アフガニスタンやボスニア、ユーゴ、イラクなどで使用されています。
アメリカの侵略によるイラク戦争では、2000トン以上の劣化ウラン弾が使用され、イラク国内に住む多くの住民を重金属障害や放射能による健康疾患に追い込んでいます。

そして今、日本の六ヶ所村では、原発から排出される使用済み核燃料を加工しなおして、プルトニウムを取り出す再処理工場が、来年の本稼働を目指してアクティブ試験を始めました。

2006年3月31日のアクティブ試験開始から8ヶ月がたった今(2006年11月現在)、すでに数回の放射能漏れ事故や、作業員の被ばく事故などが報告されています。
そして、大気中に放出される放射性物質、海中に排出されている放射性物質の両方が、試験前に立てた予測を上回る量で放出されています。

日本政府は、原子力発電を推進していくことを国策として掲げています。

「国策だから仕方ない」といって、このままこの政策を受け入れ続けていいと、僕には思えません。

そもそも、この国は誰のものなのでしょうか。
国家の持ち物なのでしょうか。
国家のためなら、どこかの地域が苦しんでもいいのでしょうか。
他国の先住民たちを苦しめてもいいのでしょうか。

そんなはずはありません。

大地は、国家の所有物ではありません。
私たちは、この大地に生かされてるのであり、それぞれの土地は、それぞれの土地に暮らす一人一人の意志で守っていくべきです。

このブログを始めた理由は、
この世界に蔓延するすべての不平等や不均衡を打破するためであり、核をめぐる被害(身体的な被害だけでなく、心の被害も含め)のすべてを取り去るためであり、命の大切さを忘れたまま突き進む社会に警笛をならすためです。

僕はこの世界が破滅に向かうことを望みません。
しかし、今のこの社会が破滅に向かいつつあるという実感を抱いていることも事実です。

今まで見ようとしてこなかった「現実」に目を向けることは、時に辛いものです。
実際僕自身、核実験や原爆の後遺症に苦しむ人たちの苦悩を知るたび、原発現地を訪ねるたび、胸が締め付けられるような想いになります。

しかし、そうやって現実に目を見開き続けることは、一人の人間として世界とどう関わっていくかという、ひとつひとつの選択に意識的になり、本気になっていくための支えになっています。

放射能の脅威が世界中から消えてなくなり、すべての命と命が慈しみ合い、支え合える世の中を、心から願います。

そのために出来ることのひとつとして、僕はこのブログを通じて想いを綴り続けたいと思います。
わたしにつながるすべてのいのちのために。

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