246【ゆくだけ】
今日は「六ヶ所村ラプソディー」7カ所目、北浜のチャクラに来ています。
連日、「別会場で映画を見た友人から紹介されて来ました」的な話を聞きます。
連続して上映会を打っていく、その意味と効果は思った以上にあるようです。
早くも来年は、ツアー第二弾が組めそうですし、様々な会場で「六ヶ所茶会」と銘打った語らいの場が開かれていきます。
「原発を語ることはタブーである」という呪縛を解き、
日常の中で当たり前にこのようなことを語らえる雰囲気を創っていきたいものです。
「おかみに任せておけばいいんだ」という無責任と依存と思考停止が、
どれだけのヤバい事を見てみぬふりしてきたか。
賞味期限偽証問題など、僕から言わせたら企業をダメにしたのは僕たちだ。
おいしいお菓子を作ってくれてありがとう。
電気を作ってくれてありがとう。
野菜を作ってくれてありがとう。
感謝の声を僕たちは届けてきたのだろうか。
あまりにも当たり前に消費してきてはいないだろうか。
感謝されなければ、作ってる側はやりがいなくなるよ。
心こめようという気持ちが削がれていったって、仕方ない。
今まで思いっきりお世話になっておきながら、
ちょっと道理から外れたことをしたらそっぽを向くなんて、
そんな悲しい話あるかよ、と思う。
電力会社についても、
政治家についても、
役人についても、
僕たちの多くが任せ切りにして、放任してきた。
一緒にものを考えるということをしてこなかった。
そのつけが回ってきている。
政治家のみなさん、顔を見てるとみんな疲れている。
忙しいんだろうな。
世界で起こっている出来事は、僕たちの生活と分ちがたくつながっている。
僕たちは無力なのではなく、力を発揮してこなかっただけだ。
無意識で無責任な選択を重ねてきたおかげで、そのつけを誰かにおしつけてきただけだ。
政治家に対して、メディアに携わる人達に対して、経済に携わる人達に対して、敵対するような批判はダサイぜ。
仲間に対して、分ちがたくつながっている、同じ血を引く兄弟に対しての愛を込めての批判はすべき。
お互いそろそろ目をさまそうぜ、そんなことしてる場合じゃねーじゃん、という批判はすべき。
でも、そう言った後に共に同じヴィジョンに向かって歩けるくらいの、少なくとも同じカマのメシを食えるぐらいのリアリティは持っていたいね。
原発から生み出される使用済み核燃料を人知れず受け入れている六ヶ所村。
全国の75%の米軍施設を受け入れている沖縄。
関西で使う電力の52%を供給する原発を15基も抱えている福井県若狭。
自分の事として捉えないかぎり始まらない、とつくづく思う。
そして、自分の事として捉えることをしんどいと思う時期を越えたら、
そこからは、意識的な選択と意識的な行動の積み重ねによる、実感と感謝の日々が始まるだろう。
依存や思考停止による生活は、便利でらくちんだ。
しかし、そのような生活は、人を無力で不自由にしていくだろう。
そこを抜け出すには、様々なめんどくさいことをしていくという選択をわざわざ選ぶことに等しい。
近くのコンビニで済ませていた買い物を、一駅先の自然食品店にかえる。
付けっぱなしにしていた電気を消し、エスカレーターをやめて階段を上る。
便利でない行為を重ねていくと、どんどん力強くなっていく。
ストレスがなくなっていき、エネルギッシュになっていく。
そして、気付くとそんな仲間ばかりに囲まれるようになっていく。
ストレスがなくなると、エネルギッシュになっていくと、無駄な消費はしなくなっていく。
必要なくなっていく。
変化とは、部分的でなく包括的に起こるものだと思う。
食が変わり、お金の使い方が変わり、電気の使い方が変わり、人との接し方が変わっていく。
変化とはそのように起こるものだと思う。
今ある様々な課題のどれかに真剣に向き合ったら、
その課題を解決する道を選んだら、おそらく想像しうる世界中のすべての局面が、同時多発的に変化していくだろうと思う。
世界のすべては、分ちがたくつながっている。
今日の夜、夜行列車に乗って山口県上関に行ってきます。
明日の早朝、フェリーで祝島へ。
祝島の対岸に、今まさに新たな原発を作ろうとしているのです。
原発は、常に1秒間に70トンの海水を冷却水として引き込み、7度ずつ温めて海に戻しています。
上関は瀬戸内海の入り口。スナメリが立ち寄るような美しい海だそうです。
20年以上届け続けている反対の声にも関わらず、ボーリング調査が始まりました。
これ以上、孤立を生み出してはいけません。
その流れに歯止めをかけるとしたら、今しかありません。
原発が出来てしまったら、反対するものも推進するものも幸せにはならない。
命令だから、仕事だからと割り切って原発を受け入れていく姿を見るのは、胸が痛いよ。
具体的に何をどうしたら原発建設を止める事が出来るのか、僕にはまだ分からない。
でも、分からないから声をあげてはいけない、というのは違う。
ウランの採掘や輸送、原発、再処理、あらゆる過程で生まれる放射能汚染と被ばく、孤立と分断、無力感や悲しみや悲しみや葛藤や矛盾。
それらすべてが解決する未来を望むし、そのために当時者として関わり続けるという覚悟と意志表示と共に、僕は原発建設を望まないという意志を、これからも明らかにしていくつもり。
その上で、そんな意志を押し付けることなく、すべての声に、心を開き、受け入れ、自分の中に取り入れていきたい。
やりながら、歩きながら、知恵と知恵がつながり、思いと思いがつながり、包括的な理解が生まれ、解決への道が開かれていく。そう思う。
何か準備が整ってからでないと声を上げてはいけない、それは違うだろうと思う。
まず意志ありきだ。
その意志に基づいて語り、動く。
その言葉と行動を、続けながら磨きあげていけばいいと思う。
「英語がうまくならないと外国人と話せない」みたいな傾向ってあるけど、やばいよそれ。
うまくなるには、場数しかないと思うんだけどな。まず話してみる、うまく通じ合えなかったらそれから勉強すればいいじゃん、とか思うんだけど。それと同じだ。
話それたけど、反対とか推進とか、そんなもん関係なく、すべての枠と壁と立場を越えて、すべてのものが安心して暮らせる世界を作ることを志向していきたい。
何かを打ち負かしたり、どちらかが我慢するのではなく、存在する全てのいのちが共存していく道があるはずだ。
トランセンド=越える、という解決策があるはずだ。
すごく漠然としているが、その事だけは確信している。
この根拠のない確信について説明出来るようになるときは、その確信が現実として立ち現れた時だろう。
そんな確信を持っている仲間は、僕たちが思っているよりたくさんいるようだ。
世界が変わっていく、癒されていくための臨界点は越えたようだ。
あとは、ゆくだけだ。
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