調和の日のために
ヤイル(ヤクナ)=愛、苦しみ
マヤでは、対極のものを同じ言葉で表す事が多いらしい。
毒、薬。
原因、結果。
二つで一つ。
易の「太極が無極を生む」発想に通じるものがありますね。
すべての物事を否定することなくあるがまま観ること。
善悪の判断なしにあるがまま観ること。
「平和」とは、
正義が勝つことではなく、
悪が滅びることでもなく、
「バランスが取れている状態」のことを指しています。
そもそも、何が善で何が悪かなんて、くくることは出来ない。
くくると、くくった本人がしんどくなりますね。
私たちはつねに可変的であり、つねに動いているのですから。
太陽のエネルギーが南半球と北半球に等しく降り注ぐ日=春分。
日本では昼間と夜間が等しくなり、太陽は真東から昇り真西に沈む日。
彼岸。
SPRING EQUINOX。
マヤンカレンダーチャートにおける1年の始まりは、調和の象徴である春分の日です。
そんな今年の春分を迎える3日前、青森県庁を訪ねました。
再処理、放射能汚染、なんとか防ぎたいという思いで足を運んだその場所で学んだことは、
世界に敵はいないということでした。
頭では分かっていた事実を、体全体で受け取ってしまった感じです。
あれから2週間ちょっと。
まだうまくこの意識変容を言語化出来ていません。
あの席にいた県職員の三方は、
とても敵であるなんて思えなかったし、
彼らが僕らを騙しているとか、そんな感じの悪者にも見えなかった。
ま、色々と突っ込みたいことはあったけど、
それよりは話を聞きたいと思った。
言いたい事を言ってなさそうだった。
あの様子では県庁内でも本音を言えていないのではなかろうか。
ゆっくりと話を聞きたいと思った。
そして、こちらにその準備があっても、
相手にとってそれは難しいだろうなとも思った。
肩書きや役職によって本音を語れないということは、大いにあるだろう。
下手なことをしたら罰せられるかもしれない。
左遷かもしれない。
減給かもしれない。
精神的な罰を受けるのかもしれない。
用意された回答以外は読み上げてはいけないと上司に言われているかもしれない。
オイラが4年間所属していたソニーミュージックでも、非常勤講師をしていた専門学校でも、(例外的な振る舞いをする少数の人はいるものの)多くの場合、そういった雰囲気が蔓延しているように思う。
そういう世の中なんだなと、つくづく思う。
青森県が特殊なわけでも、
日本原燃が特殊なわけでもなく、
日本という国全体がそのようであるし、
人間社会全体が(確かめたわけでもないし予想だけど)そのような雰囲気になっているんだろうと思う。
表と裏のある世界、隠していることと隠していない事のある世界の中で、
本音を語れないもの同士が意思決定を行ない、
本音を語れないもの同士がその意思決定に従い動いている。
青森県庁でのやりとりに話を戻すと、
じゃあそこにいた職員さんの上司はどうかと言ったら、
多分その上司も、誰かの命令で動いているんだと思う。
じゃあそのさらに上司は、と言ったら、
そのさらにさらに上司からの命令で動いているんじゃないだろうか。
そしてさらにその上を辿っていくと
「県全体で決めたことだから」
とか
「事業者が決めたことだから」
とか
「国が決めたことだから」
ということになっていく。
ではその県とか国とか事業者の決定はどうやって為されたのかといったら、いわゆる「話し合い」によってだろう。
そして、
その話し合いにどんな密約や利権が絡んでいようと、
話し合い自体はたいてい多数決によって決まっているように思う。
「決まったことだから」
という事で容認、黙認している出来事のほとんどは、
誰も責任者になることなく主体者になることなく、
「話し合い」や「多数決」という”システムそのもの”が
決定したものばかりなのではなかろうか。
個人ではなく
ハートではなく
スピリットではなく
システムが決めた事。
お金が決めた事。
データが決めた事。
いのち以外のものが、世界を動かしている。
おいらは、
影の首謀者はユダヤであるとか、
暗黒政府であるとか、
世界統一政府であるとか、
フリーメーソンが暗躍しているとか、
new worlk orderがあるとか、
そういった話にあまり興味がない。
一時期あったけど、最近興味がない。
それって原因探しにすぎなくて、
「じゃあどうする?」
「どうすれば解決できる?」
という事に対する回答にはなっていないと思う。
それが誰であっても、どんな組織が存在していたとしても、
同じ地球というシステムの中で呼吸し、太陽エネルギーを享受し、
共に暮らしている共同体のメンバーであることにも変わりはない。
それが誰であれ、それが「もうひとりの自分」「映し鏡の自分」であることに変わりはない。
全体的な解決のためにはそれが誰であれその仲間が救われたり癒されたりすることが大切だし、
全体的な解決こそが大切だ、と思う。
このような状況を皆で作ったんだな、としみじみ思う。
あなたと私。
右と左。
上と下。
神と人。
天皇と人。
政治家と国民。
生産者と消費者。
アーティストとお客さん。
先生と生徒。
支配する側とされる側。
監視する側とされる側。
本当は境界などなかったはずだ。
役職や肩書きや所属団体、
国境や県境や住んでいる土地の境目。
空間と空間。
時間と時間。
個人と個人。
近所でトラブルがあったら自分たちで解決せずに警察に電話する。
熱が出たら医者に行く。
自分の未来を、お金を払って祈祷師にしてもらう。
自分の幸せ不幸せを、
政治家や公務員やお店や生産者やマスメディアやお金に叶えてもらう。
この集合的他者依存システムそのものが、限界まで来ているのだと思う。
極みを迎え、そして崩壊しようとしているのだと思う。
日本原燃の役員さんも職員さんも、
その下請け会社や孫請け会社の社員さんも、
青森県庁の職員さんも六ヶ所村の職員さんも、
六ヶ所村の村民のひとりひとりも、
電気事業連合会、経団連、資源エネルギー庁、環境省、農水省、公安の職員さんも。
もともとは近所の遊び友達だったかもしれないし、クラスメイトだったかもしれない。
今ある境界なんて引っ越したり売り買いしたら変化してしまうし、 退職しても転職してもしかりだ。
人間同士で決めた(または受け入れた) ルールは、人間界に通用するにすぎない。
それらの境界は意識の力によって保たれているし、 意識の力によってその境界を越えることも出来る。
表向きに壁や境界を作ったとしても、 その境界を越えて分かり合えてしまうことは可能だ。
テレヴィジョンに映し出させる光の点滅を観ているだけで、
そこに送り込まれるデータの奥にある喜怒哀楽に共鳴出来てしまうほどに、
僕たちは繊細で敏感だ。
ラジオやテレビや新聞やインターネットやメールや携帯電話という、
言ってみれば国民の思想管理、情報管理のために権力者が与えたツールを通じて、人類の集合意識はとてつもなくテレパシックになってきているように思う。
多分このまま行くと、近い未来にお互いがお互いのことを、
分つ事の出来ない兄弟家族であることに気付けるはずだ。
僕たちは近々、誰を攻撃する事も、痛めつけることも、奪う事も、閉じ込める事も必要がないことに気付けるだろう。
そのために、
自分の中にある暴力、支配、コントロール、攻撃性を手放したいと思う。
今まで以上に心から、そう願う。
世界中の人びとが、心の中で叫んでいる。
被害者も加害者もない。
共存をしたいなら、必要なことは理解であり、共感であり、癒しであり、許しであり、治療であり、再生だろう。
青森から戻って20日。
自分がいかに無知であったかを知り、
自分がいかにして分っているつもりになっていたかを知り、
自分がいかにして敵を作っていたかを知る日々が続く。
まだまだ、
自分の中で破壊され再構築されつつある価値観を言語化できそうにない。
相変わらず僕は、五感や直観を最大限に使える直接対話の場を、
コミュニケーションのよりどころにしている。
明日以降も様々なシチュエーションの中で、
さまざまなあなた(もうひとりの私自身)と出会い、
語らうだろう。
その中で、
あなたと共有する時空間の中で、
新しいリアリティが立ち上がっていくことを楽しみにしています。
私が私自身の調和を取り戻し、
地球や宇宙の調和に気付くことができますように。
感謝と祈りを行なえますように。
拝
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